世界へ羽ばたく最初の一歩@ビジネス英語プロマイスター清水健雄

名古屋・岐阜でビジネス英語を学ぶなら『英会話ファーストステップ』

【私の経歴】

【高校卒業まで】

極々平均的な中学・高校時代を過ごす。特に英語が得意なわけではなかった、むしろ社会が大好き。中学時代の恩師の影響を受け、社会科教員を目指すことを決める。

そういうわけで、大学受験は全て教育系の大学を受験。が、ことごとく落ちる。

大学受験失敗の年の冬、小学校時代の恩師宅を報告のため訪問。恩師の旦那さん(元英語教員)より、「一浪するんだったら、アメリカへの留学を考えてはどうか?」というアドバイスをいただく。「このあと、必ず英語力が必要な時代になる。ただし、本場の英語を身につけないと意味がない。」とおっしゃっていたが、20年以上も前にそのような考えを持たれていたこの方はすごいですね。このアドバイスが私のこの後の人生を大きく変えることになります。

両親と相談し、高校を卒業と同時にアメリカ留学が決定。

アメリカ留学時代】

高校卒業後、学生ビザ取得のため2ヶ月ほど日本に留まる。留学先は、オレゴン州ポートランド。理由は簡単、母親の友人の子供がそこへ留学していたので、ビザの取得を手伝ってもらえたのと、母親が安心できるから。当の本人、オレゴン州およびポートランドがどこにあるのかも知らず。

無事ビザも取得しポートランドの地に降り立ったのは、1990年5月。その当時は成田からの直行便しかなく、朝早くに母親と弟3人で名古屋から成田に向かいました。ちなみに、その1年後には名古屋への直行便が開通、しかし今はまた成田だけとなってます。

ポートランドの最初の印象は、信じられないぐらいの緑の多さ、気温は高いけど湿度がない分カラッとしていてとても過ごしやすい、到着した日は快晴でしたからね。

仕事の都合でホストファミリーとご対面できたのはその日の夕方。夫婦とホストファーザーのお父さんの3人家族の家でした。再婚夫婦で、当時はホストマザーのお嬢さんはホストマザーのお母さんと一緒に住んでいました。

その日の夜、「この家のルールを説明するから」と言われ紙に書いた決め事を3人で確認。えらい細かいことするな~、と思いつつもこれがアメリカなのかなって時差ボケであまり回っていない頭を一生懸命使って何とか理解。

後に知ったのですが、ホストファーザーは(アメリカ人には珍しく)結構細かい人で、このルール作りはきっと彼が考えたのだろうと思います。
たぶん、他の家ではこんなことしてなかったんでしょうね(笑)。

<語学学校時代>

そんな初日を迎え、次の日から授業が始まりました。

TOEFLのスコアを持っていなかった私は、当然大学への入学許可は下りないので付属の語学学校へ入ることに。小さな私立学校でしたが、日本人の割合は多く、それもそのはずで日本に分校があったんですね。ここでTOEFLが取れるまでの1年を過ごすことになります。

最初の一年、結構大変でした。当然ほとんど英語を話せないので、ほぼ何も出来ない状態。こちらが言ってることがほとんど通じないし、向こうが言ってることも分からないし・・・。ホストはゆっくり分かるまで繰り返してくれるし親切な人もいたのでそこは助かってましたが。

しかし、英語が出来なければ何も出来ないので自分の伝えたいことは必死でした、そうじゃないと生きていけない、まさにサバイバル状態だったんですね。

あっ、このとき丁度「新・スタートレックStar Trek: The Next Generation)」がアメリカで放映されていて、見事に私をトレッキーにしてくれました(笑)。

テレビってリスニングに丁度よかったんですね、なんて言い訳しながら面白そうな番組を片っ端から観て夜や休日を過ごす毎日。あと、たまにホストがビデオを借りてきたり(もちろん、ポップコーン片手に観てましたよ)、映画がとても安いので(当時は300円ぐらいでした)、 1週間毎日授業が終わってから観るもの決めず映画館に行って、一番時間の近い映画を観たり。

それに、日本人の友達と普通に飲み会をしたり、夜中にデニーズへ行って朝まで話しをしたり、意味もなく夜中に海へ行ったり(笑)。今でも連絡を取り合っている、大切な友達です。

<大学時代>

ポートランドに来て1年が経ち、やっと大学への入学許可を下りました。私は教員養成課程を選択、中・高校生を教えることが出来るコースです。

大学へ入ったのはいいが・・・、語学学校時代の非ではないほどの大変さ(苦笑)。
授業はアメリカ人と同じなので、スピードも違うしこちらに合わせてはくれません(当然ですよね)。

それに、宿題の量も半端ではなく一日費やしても追いつかない・・・。徹夜することもちらほら、そうじゃないと授業についていけない・・・。正直、高校の頃よりも10倍以上は勉強しましたね~。

私の選択したコースは、米英文学を必須としていたこともありエッセイ(論文)課題も多かったです。

当時はインターネットもなく、資料は全て図書館で探さないといけません。通っていた学校の図書館は小さすぎたので、ダウンタウンにある州立大学の図書館へよく通いました。

車を持ったら、私は半分アッシー状態(笑)。週末の朝一に入り、夜まで資料を探してひたすらコピーし、それを持ち帰ってエッセイを書き始め、時には徹夜で仕上げ・・・。その後、普通に授業を受けたりして、よくやってたな~と関心するばかり(←自画自賛??)。

大学最後の年、教育学科の必須で教育実習があり、私はちょっと特別な小学校へ行くことに。

そこは公立小学校であるけれども、モデル校として半日日本語を使った授業している学校でした。各学年は2クラス編成となっており、英語での授業は現地のアメリカ人の先生、日本語の授業はバイリンガルの先生(ほとんどは国際結婚している先生でした)が担当。

自分は3年生のクラスに行くことになり、生まれて初めて(当たり前か)アメリカ人の小学生と過ごすことになったのです。3ヶ月と短くはあったけど、日本では体験できないこともありとても充実してました。アメリカに留学してなかったらできなかったこと、いや~、ホントに楽しかったな~。

そんなこんなで苦しかったけど、日本では出来ないであろうたくさんの経験と、一生の友達ができたアメリカ生活も、卒業(1995年12月)と同時に終了。翌96年1月帰国。

【教員生活・海外赴任】

<教員生活>

帰国後、日本の教員免許取得の資格がないとのことで、日本の大学へ編入、教員免許取得に必要な単位を取る。

単位を無事取得、その後愛知県内の私立の高校にて英語教諭となる。赴任初年度は、一年生の学級担任を任され、四苦八苦しながらも無事全員送り出す。

2年目は、寮生の学習指導。英語だけではなかったので、ほぼ生徒達の話相手に。それに夕食は寮で食べることができたので、この1年間の夕食代はタダ。授業も午後の2時間だけだったし、この年はかなり楽をさせてもらえた。

<海外赴任>

やっと自分の目標であった教員となったが、転職し県内の自動車部品会社へ転職。

転職斡旋会社から、アメリカへの赴任者候補を募集していた会社への紹介があり、何とか内定を勝ち取る。

2年の社内研修&ビザ取得待ちを経て、20023年2月にアメリカ工場に赴任。場所は、テネシー州のジェファーソン・シティー。ノックスヴィルという街に進出していた自動車部品国内最大手デ○ソ○さんの近くでした。

お客も部下もほぼアメリカ人。慣れない仕事と環境でなかなか十分な成果が出せずにおり、久々の英会話にも苦労したため、最初の1ヶ月で5kg減。

しかし、アメリカのこってり高カロリー食事のおかげで出向前より10kg増。そりゃあ、ジャンクフードしかなかったらこうなりますよね・・・。

よい同僚と部下に恵まれ何とかスランプも脱出。プラス、顧客がほぼ現地アメリカ人であったこともあり、更なるスキルアップにつながりました。ただし、テネシー訛りの英語が多少移ってしまいましたがね(苦笑)。

5年間の出向も無事に終え、2008年2月に帰国となりました。

【現在に至るまで】

帰国後、転職で住まいや職場は変わるものの英語からはすっかり離れた生活に。

ある日、知り合いに「どうやったら英会話を覚えることができるか」という疑問を投げかけられ、自分なりの英語に対する思いを伝える。その中で、「もう少し気楽に、しかし確実に英会話を学べる場を作ればいいのでは」という考えを持つようになり、いつか英会話スクールを作ろうと考える。

実家の近くに転職&引越を機に、『英会話ファーストステップ』を立ち上げる。